館長室から

館長室から

館長室から(成田稔館長のつぶやき-その1)

 癩(らい、現在の正しい病名はハンセン病)が不治といわれた時代の予防は隔離が最善とされ、殊に日本は「癩予防法」(1931年施行)に基づき、すべての患者の終生隔離(絶対隔離)を目指しました。更には癩を〈恐ろしい伝染病〉のように言い立てて人びとの不安をあおり、患者は療養所以外に行き場がないようにも仕向けました。
 これではまさしく患者は邪魔者扱いで、病人への心づかいがおろそかになっています。このことは日本の癩(らい)対策の根源的な誤りの一つでした。当資料館はこの誤りを、ご来館の皆様に公正にお伝えします。
 〈何を病み、たとえどうあろうと人は人〉という意味がよくわかり、〈私も同じ人〉としての思いやりを持つことが何より大切です。当館をご覧いただくことで〈いじめる人、られる人〉、〈仲間はずれにする人、される人〉のような、身近にある問題に対し、改めて考えてみる機会になるかもしれません。

※現在の正しい病名はハンセン病ですが、時代に合わせ歴史用語として「癩」「らい」を用いています。


館長室から(成田稔館長のつぶやき-その2)

 現在の日本におけるハンセン病患者の年間発生数は、ほぼゼロといってもよい状態になっており、日本人がハンセン病を病むことはまずなくなったと言えます。その理由は、国民総中流階級化したといわれるように、生活水準が向上したことで、それによって日本人のらい菌に対する抵抗力が増したためです。
 これが今では、医学界の共通の見解になっていますが、結婚話などで(イエ)とか世間体とかいったことが話題になると、社会では「悪い筋」のような偏見から不縁に終わることもまだあるようです。これでは科学が、世間の偏見に打破されたようなものです。
 感染症である上に、今や病むことがまずなくなったハンセン病について、血筋だの家系だのということ自体が、無意味だといえはしないでしょうか。これに拘泥すること自体、無知か無恥と言われる時代になったのです。こうしたハンセン病の正しい知識を持っていただくことを、ハンセン病資料館はめざしています。どうか一度御来館ください。ハンセン病に限らず、精神的、身体的障害を伴ういろいろな病気において、病気と人との区別があいまいなために、その病気にかかった人までさげすむようなことがあってはなりません。〈何を病み、たとえどうあろうと人は人〉、そして〈私も同じ人〉に違いないのですから。


館長室から(成田稔館長のつぶやき-その3)

 全国ハンセン病療養所入所者協議会(全療協)の編集による『復権への日月-ハンセン病患者の闘いの記録-』に、「日本語から「らい(癩)」の字句を抹消することではなく、最終的には、やはり「私はらいでした」といっても一向に支障のない社会を実現することでなければならない」という文章があります。この文章を綴った方(もちろんハンセン病回復者のお一人です)の思いがおわかりでしょうか。
 改めて次の機会に国立ハンセン病資料館にかかわる私の考えを述べることといたします。

館長室から(成田稔館長のつぶやき-その4)

 〈日本語から「らい(癩)」の字句を抹消することではなく、最終的には、やはり「私はらいでした」といっても一向に支障のない社会を実現することでなければならない。〉(全国ハンセン病療養所入所者協議会編『復権への日月 ハンセン病患者の闘いの記録』より)
 日本のハンセン病新発生患者数は、年間ほぼゼロというのが現状であり、万々が一ハンセン病にかかっても、通院して規則正しい内服治療を受ければ、確実に治るでしょうし、通院中にこれまでの生活様式を変える必要は一切ありませんから、「普通の病気」でしかありません。
 それなのに、ハンセン病の回復者たちの組織である「全療協」の方々は、わざわざハンセン病以前の古い「らい」という嫌われた呼び名まで持ち出して、それでもいいから「隠さなくてすむ世の中」であってほしいと言うのです。
 繰り返しいいます。日本人にとってハンセン病はもはや病まない病気になっているのです。「悪い病の気がある」と言ったような見方をするのはやめましょう。さもないと「非常識な人達」と思われても当たり前のことになっているのです。全療協はそのあたりを百も承知でいっているのですから、私たちもしっかりしなくては・・・と、そう強く思います。

館長室から(成田稔館長のつぶやき-その5)

 「中耳炎になった場合、後頚部からの手術はこの病院ではできない。」
 「それでは外へ出て手術を受けることが出来るのか?」
 「恐らく外へは出すまい。」
 「それではどうなる?」
 「見殺しだ。」
 この言葉に自分は戦慄した
 (『北條民雄全集下巻』 「日記」一九三四年九月一日)
 ここでの病院とは、第一区画連合府県立全生病院(国立療養所多磨全生園の前身)のことで、話は絶対隔離(すべての癩患者の終生隔離)の時代にさかのぼります。北條はこの日記を記した三ヵ月ほども前の五月一八日に入院しており、翌月から小説『一週間』(一年半後にはかたちを変えて『いのちの初夜』として発表されました)を書きはじめています。
 それはともかく、前の日記の中の「見殺しだ」という一言の意味は何でしょうか。病院とは「人の病を癒すところ」、「人の命を救うところ」であって、「死ぬとわかっていて助けない」なんて、「恐ろしい」と震え上がって当然です。
 これでおわかりでしょうか。癩病院とは「ここで生きてもらう」のではなく、「ここで死んでもらう」ところだったのです。
 このような医療の貧しさは、国立ハンセン病資料館の展示からはよくわかりません。殊、医療技術について不明なのは、治療の環境の記録(現物や現場写真など)がないからで、その意味では北條の日記の記事は、私たちに癩(らい)医療とは何かをよく知らせています。

館長室から(成田稔館長のつぶやき-その6)

 日本の過去における癩(らい)対策は、無謀な絶対隔離が基本であり、そのための終生隔離と断種(感染源の根絶)、強制作業(入所者増を目論む経費削減)などは人権侵害の最たるものでした。
 当資料館には、そうした場面のいくつかが展示されていますが、それらを見た方々のご感想には「よくわかった」という言葉が多く見られます。しかしこの「わかった」は、癩(らい)患者の苦しみを自分のこととして考えて発せられたものでしょうか。
 人権を考えるときに、「何が(なん)であろうと人は人」という、人として正しい考えのもとに、「私も同じ人」という同じ立場に立った思いがなくてはなりません。つまり他人の苦しみをよそ事にせず、自分のこととして考えるのです。それが共感であり、苦しむ人に「私が何かしてあげられることはないか」という思いやりです。人権侵害について考えるときに、最も大切なことは決してよそ事にせず、自分の場合におきかえて考えるのが大切ではないでしょうか。